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MOVIE◆ANPO


 運営委員をしているNPO「ピースあいち」の仲間たちに勧められて、映画「ANPO」を見た。監督は、日本で生まれ育ったアメリカ人リンダ・ホーグランドさん。
 字幕翻訳の仕事を通して日本映画を知るにつれ、1960年の安保闘争が映画監督に大きなトラウマを残していること、さらに当時のアーティストたちが作品で安保問題、米軍基地問題を表現していることに気づいたのが、映画制作のきっかけになったという。多くのアーティストが無料で作品を提供し、インタビューに答えている。ナレーションなしでそれらが紡がれていくドギュメンタリー。あっという間に1時間半が過ぎてしまった。

   初めて知った方もいるが、池田龍雄(画家)、東松照明(写真)、中村宏(画家)など、気骨ある人たちが60年安保を語る。半藤一利、保坂正康も登場する。
 横尾忠則は、1970年、米「TIME」誌から佐藤栄作のポートレートを依頼された際のエピソードを語る。作品をよく見ると、ネクタイが米国旗のようだ。「米国が佐藤栄作の首を絞めているように見える。それさえ変えてくれたら、表紙として採用する」と、TIMEは言ったらしい。当時まさに売り出し中の横尾氏にとって、TIMEの表紙は大きな足がかりになるはず。でも彼は「その通りでしょ」と、描き直さなかった。
 60年安保のとき、彼もデザイナー仲間とデモに出かけた。派手な服装で、きっと他からは『軟派』と思われていたと想像する。「後ろから右翼が来て、おまえらはどこへ行く!と怒鳴る。それは怖かった。自分がもっと思想的にしっかりしていれば、あれほど怖くはなかったと思う」と(いうようなことを)語っていた。そのときの横尾氏の恐怖は、私には生々しく迫る。そして、その経験が、世界的な支持を得た後の彼の制作姿勢に少なからぬ影響を与えた、ということだろうか。
 
 学校でグラフィックデザインを教えていた朝倉摂(舞台美術)は、学生をオルグしてデモに出かけている。当時の教え子で一緒に国会議事堂に行った嬉野京子(写真)は1965年、米軍占領下の沖縄で小さな女の子が米軍のトラックに轢き殺された現場を撮影する。通園バッグを持ったまま仰向けに倒れている小さな身体。投げ出された細い手足。そのそばに突っ立っている大きな米兵たち。沖縄の置かれている理不尽な立場が切り取られた一枚の写真だ。

 私はもちろん、60年安保の記憶はない。けれど、70年前後の学生運動は知っている。安田講堂、ゲバルト、赤軍派、ハイジャック、中学校で放水場面を長々と見せられた浅間山荘事件…。恥ずかしながら、学生つながりでしょうか、それらと60年安保が「何だか怖いもの」として一緒にイメージされていた。間違いと気付いたのは、スクリーンに映し出された富沢由紀夫(映画)や濱谷浩(写真)による画像だった。
 子どもを背負った主婦たちがいる、「愛知」と書いたゼッケンをつけた人がいる、制服をきた学生たちがいる。高校生だった串田和美(演出)は、数人の仲間と校庭に立ち、校舎の中の生徒に向かって、一緒にデモに行こうと叫んでいたそうだ。しばらくすると一人の教師が出てきた。教室に連れ戻されるかと思ったが、教師は言った。「僕も行く」と。  敗戦後わずか15年、東西冷戦が各地で紛争を起こしていた時代。一人ひとりの、もう二度と戦争はしたくないという意思が、集まっているように思った。

(赤澤)
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